感情的に訴えるということの意味

 ワロンによると,人間が発達する方向性の捉え方には,環境に働きかけて何かが出来るようになること以外にも,自分の中で自分の感情をたかぶらせ,それを周囲に発散するということのように,自己内環境への働きかけ,あるいは自己の表現とでも言うべきものもあるという。赤ん坊が精一杯の力を振り絞って泣くとき,それは自己内で感情を高ぶらせ,感情を盛り上げて,一気に周囲へと放出する。そのような活動も人間が発達を通して獲得する1つの力であると言える。

 さて,議論において意見を主張するときを考えてみたい。赤ん坊のように,感情を自分のなかでたかぶらせて一気に放出するような主張のストラテジーは効果的だろうか?もちろんそれを有効な主張方法だと思ってしまった人がいたら,その人は「あの人はいつもぶち切れちゃうから,話ができないんだよなあ」と言われてしまうだろう。しかし,ワロンの観点から考えると,そのような「ぶち切れコミュニケーション」にもある種の妥当性があるのが分かる。言葉が使えないような場合ではそのように,自分の感情を自分の全てで表現する方法によって,そのメッセージを周囲に伝播させることができるのである。

 したがって,言葉を覚えた大人が「ぶち切れ」方略を使うということは,言葉をメッセージの担い手として信頼していないことが伺われる。一見,言葉を使っていても,それを意味のレベルで用いることもできれば,全身をふるわせながら感情を発するその媒体として言葉を用いることができる。つまり,言葉は使い方によっては記号であるが,使い方によっては感情の波動を載せる空気の振動として用いられるのである。

 なぜ人によって言葉の使い方が異なるのか,これをワロンの理論から見てみるとおもしろい研究になるかもしれない。

 また,「ぶち切れ」コミュニケーションと,優れた弁論家が熱をもって話す場合とでは,なぜ前者は子どもじみていて,後者は責任を持った活動家として捉えられるのだろうか。前者と後者では根本的に何がことなるのか。

 と,ワロンを読んでいろいろなことを考えました。