アフォーダンサーが信じて疑わないこと

アフォーダンサーのパダ・ワン,eteduです.言葉遣いには常に正確を期しておきたいという向きは,「アフォーダンサー」とか書いている部分を,「ギブソニアン」に置換してくだされ.

まだ,アフォーダンス熱は冷めていませんよ.どうやら本物かもしれません.僕がはてな市民になるころには,生態学的議論学の骨子ができあがっていることでしょう.実は着々と準備中です.

今日は,アフォーダンサーの哲学についての覚え書きです.生態学的議論学に関係はありますが,議論についての議論ではなくて,哲学的基盤の話です.そして,「科学と宗教の関係」という議論とも関わってきます.

まず科学と宗教の関係についての基本を抑えておきましょう.いろいろな人が「宗教と科学が違うものだ,あるいは相反するものだ」という前提に乗って,科学と宗教について論じていますが,歴史的な観点からみるとそのような議論はナンセンスです.強引な言い方をすると,科学というのはキリスト教の落とし子のようなものです.ダーウィンも,デカルトも,敬虔なキリスト教徒でした.「神を信じるという立場をとるのであれば,神の作ったこの世界の秘密に迫る営みを進めるというのは,神に背くような感じがして,ちょっと難しいのではないか?」と考える鋭い方もいらっしゃることでしょう.確かにそうですよね.だから,デカルト心身二元論の設定という,科学のための基礎工事をしました.次のような前提をつくったのです.「体と心のうち,体(物体)には,神は存在していない.しかし,心には神は存在する.そして,心は体に影響を与えることができるが,体は心に影響を与えることはない」.だから,体を,そして物体を研究することは,神の世界を侵すことにはならないのです.デカルトは屁理屈の天才でもあったのです.こうなると,むしろこの世界の物体も神が設計した訳だから,科学が自然のメカニズムを証明すればするほど,神の設計のすばらしさも証明されるという訳なんです!なんと都合の良いこと.こんな風に簡単に書くと意外に思われるかもしれませんが,デカルト以降の科学的営みは,こんなにあやうげな基礎の上に乗っかって,世の中を席巻してきた訳なんですね.「こんな話,デタラメだい!」って思う方には良い本を紹介しておきます.あ,もちろん,こんな話,とってもすきっていう方にはもっとお勧めです.
科学と宗教

で,生態心理学は「この二元論にのっかるのをもうやめときまひょ」って主張している訳なんですが,まあこれはリードの本に詳しく書いてますので,そちらを参照してください.
アフォーダンスの心理学―生態心理学への道
そりゃあ,そうですよね.だって,さっきも書いたように「心」は神の領域だから科学の対象じゃないよねっていう風にみんなで決めたのに,それを忘れて,100年前に「科学としての心理学」,なんて標榜したのがそもそもこっけいな訳なんですよね.心理学は見切り発車だった訳です.だから,科学が二元論を捨てることによって,心理学は初めて科学になれる訳です.「そんなあ.心理学のために,他の学問が頑張ってくれる訳ないじゃん」って,それはある意味正しいのですが,杞憂です.物理学も,医学も,人工知能研究も,ロボット工学も,二元論に苦しめられていますから,二元論を捨てる土壌はもうできています.複雑系科学もそれを後押ししています.

ところで,今日書きたかったのは,その二元論を取るか,取らないかは,生きていく上で僕らが「心の安らぎの中で生きていくのか」それとも「困ったことを抱えてしまいながら生きていくのか」という,人生の方向性さえにも関係してくるということです.

アフォーダンサーは,自分や他者が何をすべきが,どうあるべきかを考えるときの前提として,「正しいところで,正しいときに,正しいことをすれば,自ずと正しい道へと導かれる」と考えているのではないでしょうか.それは,アフォーダンサーが「何でも自己が判断している訳ではない,何でも頭を使って考えながら行っているのではない.むしろ,どうしたら良いかはそこにもう見えていて,体はそれを知っている」と考えるからです.

しかし,それに対して,心身二元論者は,うまく作られたこの現世のように,なにかうまくいくこと,良くできたものというのは,神か,それをうまく行うのに十分な知能をもった超越的存在が成し遂げたものであるという発想がある.こういう発想を持つと大変なのは,自分たちが何かを成し遂げるときや人が何かを成し遂げることを助ける時です.「すばらしいことを行うには,それに見合うすばらしい『神』を自分の中に持つ必要がある」という風に考えるとなると,なんだかしんどい訳です.こういう「しんどいシンキング」をした場合,もし何かうまくいっていない営みをみつけると,そのうまくいっていない理由を分析し,それを補うような何かをデザインしないといけないとは思うかもしれません.しかし,今そこにある資源を活かして,それをうまく展開していけば,自ずと問題は解決する,なんていう悠長なことはできなくなってしまいます.そういう訳で,二元論者は人に厳しく,自分に厳しくなってしまい,原因を探しをして,今ある良いところを活かして何かをうまく花開かすことができなくなってしまうのではないだろうか.その結果,「うまく行かない原因はよく分かるのに,それをよくする方法は持っていない」という心理学者が陥りがちなところにはまりこむ訳ですね.

こういう観点から考えると,原因探しをしないで,いま使えるものを使おうとする短期療法や家族療法とアフォーダンサーの親和性の高さが窺えます.なるほど,佐々木正人氏がちょっと前の「現代思想」の家族療法特集の時に,インタビュアーとして,森さんという短期療法家と対談してた理由がよく分かります.

そして原因探しをしないで,問題を解決するという方法は,人間が関わるあらゆるところに有効なものでしょうから,例えば,小学校の授業をよくするといった試みにも有意義なはずです.となると,これから教授学習研究においても,学校経営研究においても,アフォーダンサーが活躍できる場は多いかも,とさえ考えられます.

ちょっと話はそれますが,アフォーダンサーの思想は,老荘思想やその後継の禅,あるいは仏教に親和性が高いのかもしれません.はたしてアフォーダンスをまともに研究しながら,かつ,一神教の敬虔な信者であることは可能なのでしょうか.もし可能なら,それはそれである意味日本的ですね(笑).

ちなみに僕は無神論者です.でも,「自然が神である」と言う人がいるなら,僕とそんなに意見は変わらないでしょう.そんなところです.