思考力の高さとは何か考えてみました①

考える力って一体なんなんでしょう。

まず思い浮かぶのが論理的思考力っていう言葉かもしれません。

論理的に考えるというのは,「論理」という数学的ルールに従って情報を処理するということです。このルールに従って考えているかぎり,それは「論理的」な思考になります。例えば「AならばB」と「BならばC」が正しいという条件においては,AならばCも成り立つということが論理的に正しい判断になります。しかし,これは飽くまで最初の二つの命題が正しいことが前提になっているので,それが本当かどうかが判断の正しさを規定します。しかし,現実においては,その正しさの前提を証明することが難しいことがほとんどです。従って,論理的であったとしても,しっかりと考えられているとは言えないのです。

日常場面で,例えばビジネスパーソン向けの本では,論理的思考力の獲得が成功の秘訣であると主張されることがよくあります。しかし,論理的であることがすわなち「考える力があること」にはなりません。現実場面において優れた思考者であることにとって,論理に従っていることは必要条件であるかもしれないけれど,十分条件ではないのです。おそらく一般書における「論理的思考」には,論理的であるという言葉に,あまりにも大きな意味が勝手に含まれてしまっているように思います。私達も日常的に「あの人は論理性に欠けている」などと言ってしまうことがありますが,それは論理性だけを指し示しているのではなく,なんとなく思考力の高さ全般を指していることも多いでしょう。

これは議論において優れた主張を構成する際の「証拠」にも当てはまる。科学的に厳密な方法論に従った方法で収集された証拠があることは,優れた議論を構成する上でプラスにはなるが,優れた証拠が多く揃っているからといって,それが主張の正しさを保証することにはならない。

じゃあ,真の意味での思考力をどのように捉えれば良いのでしょうか。

ここで一つ提案したいのが,「人間の社会において『優れた思考』とは,特定の社会(コミュニティ)の適応能力(≒生存能力)を高める思考である」という考え方である。言い換えると,特定のコミュニティの適応能力を高めるために機能する,そのコミュニティの成員が備えている思考の特性,それを「思考力の高さ」を構成するのだという考え方である。それをさしあたって,ここでは「適応的思考力」と名付ける(このアイデア進化心理学からヒントを得ています)。

この考えに基づくと,高い思考力を支えるものは,まず第一に合目的的であることと言えます。つまり,今何のために思考するのかということを理解し,その目的に即した思考が展開できるかということです。思考の論理性とか,科学的根拠の生成とか,根拠性の評価とか,情報の収集とか,といったスキルや特性が個人に備わっているかどうかではなくて,飽くまで,それらのスキルや特性が,特定のコミュニティの適応能力を高めるような,ある目的の達成に貢献しているかどうかが大事なのです。

しかし,なんだか明晰でない気がするのではないでしょうか?目的は目的,手段は手段として分けたほうがわかりやすいのではないか?わかりやすさを最優先にするとすれば,確かにそうでしょう。しかし,ここではわかりやすさよりも,人の思考力を適切に捉え,教育に役立つような理論の構築が最優先です。

一般的には,「目的」と「手段」は分けて考えるというのが普通の理論でしょう。しかし,目的におうじて手段をうまく活用できること自体が適応的思考にとって大事であるという観点からすると,両者を分離したところで意味はありません。まず手段だけを訓練して,その後,各自の目的に従ってそれを活用していけばいいように思えるかもしれませんが,手段のみを学習することは,学習者に「思考の手段を文脈から切り離して,それが文脈とは関係なく役に立つのだ」という錯覚を与えてしまうことがあります。従って,思考手段の修得の際に手段と目的と切り離すことは,それ自体が「目的に応じた手段の活用スキル」が身に付くことを阻害するのです。

しかし,上記には,こんな極論で反論することも可能です。「じゃあ,論理的な演算の規則を覚える以前に,子どもは社会と自分との関係を理解し,まるで大人のような目的意識や価値観を身につけておかないといけなくなるということだが,そんなのは不可能だ」という感じ。確かにそれはそうなので,思考に目的ということを意識し始めるべき発達段階があると考えるべきでしょう。おそらくそれが思春期から二十歳前後になると思いますが,この問題はこれ自体が実証研究すべき対象であると言えます。

ちょっと話は逸れますが,「目的とは別個に手段のみを教えると,適応的思考力が身に付きにくい」ということは,思考力とは何かを理論化するときに,その発達メカニズムをあらかじめ想定しておかなければ,いくら研究者にとって「わかりやすい」理論を構築したところで,それは思考能力の育成に結びつくような理論にはなり得ないということになります。従って,思考研究の目的に「教育」や「教育的介入」を含むのであれば,必然的に思考研究は,発達心理学であり,教育心理学であり,認知心理学であるというものになります。そして,さらに社会のあり方によって,何が適応的であるかが決まってくる訳ですから,思考研究は,さらに社会心理学(主に適応進化系の)であり,社会学であり,経済学であり,国際政治学であり,文化人類学であり・・・(以下続く)でなければいけないということになります。つまり,Wertschの言う社会文化的アプローチの立場に立つしかないという訳です(あ,今なんかWertschやVygotskyをもっと理解できた気がします)。

もし論理的思考が「適応的思考力」の下位能力であって,かつ思考力に弊害を与えないのであれば,論理的思考力のみを取り出してきて,その訓練を行うことは非常に重要な事である。しかし,論理的思考力を思考力の中心であると見なして訓練を行うことによって,論理のみが肥大した思考者を生み出すという弊害が起こってくる。それが最も問題である。

思考研究に詳しい方は,既にお察しがついていると思いますが,ここで言う適応的思考力とは,「第二波」批判的思考の定義に似通っています。では,なぜわざわざ「適応的思考」なんて言い出す必要があるのか?それについてはまた次回。

つづく。