「どれくらい既有知識と教科書とを関連づけできたか」を測る

Matsuo, G., Tomida, E., and Maruno, S. (2006) Classroom discourse analysis for the era of accountability: a method for discovering the most contributory utterance to extended reading of literature and its evolving process. Annual meeting of American Educational Research Association.

今日は,上の論文をさらに展開させるためのアイデアについての書き込みです.この論文は,第一筆者の松尾君のサイトからダウンロードできます.

http://mklab2.hes.kyushu-u.ac.jp/~web/member/maruno/self_matsuo.html

この論文には,小学校の国語の授業(1単元)における議論を分析の対象として,児童の議論内容の書き起こしデータから,児童がその議論過程においてどの程度教科書の内容を彼らの既有知識と関連づけることができたかを推定するプロセスが含まれています.

このような推定を行う理由は,教科書の内容を解釈する上での鍵となった概念を特定するためです.教科書解釈の鍵となった概念を特定することができれば,その概念に相当する語を誰が発したかを特定することにも繋がる.これによって,国語の授業内での生徒の発言の質を評価することができるという訳.

まず,教科書にある知識と既有知識の区別をどうするかという問題があります.国語の授業の場合,幸い教科書があるので,教科書に掲載されている語は教科書の知識であると言えます.それに対して,教科書に載っていないけれども,子どもが発した語は,既有知識であると言えます.この考え方については,いささか単純すぎるかもしれませんので,改善の余地があります.

例えば,教科書に出てきてはいないけれども,それを言い換えただけのような語は,教科書と児童が共有して持っていた「共有知識」であると考えられますので,これらの語と教科書内の語に強い関連があったとしても,それは解釈が進んでいるという証左にはなりません.

また,子どもが発するよりも先に発せられた教師の語というものは,教科書の言葉を教師が解釈したもの,あるいは教師が子どもに関連づけさせようと提案した概念を示していると考えることができます.そのため,教科書には載っていないけれども,教師が子どもよりも先に発した語は,分析対象からとりあえず外しておく必要があるでしょう.あ,今思いつきましたが,この「教師が子どもよりも先に発した語(教師導入語とでも呼びましょうか)」も新しい知識領域の一つとして意味がありそうです.例えば,教師導入語にどれくらい子どもの語が関連づけられているかを検討することによって,授業がどの程度教師の発問計画に従って,進んでいったのかなどを明らかにすることができるかもしれません.

つづく.