議論と認識論的信念

認識論的信念についてのメモです。基本的なアイデアはDeanna Kuhnなどの認識論的な区分に基づいていますが,それにもっと肉付けするためのメモ。

認識論的信念というのは,「知る」ということに関して個人がもっている信念である。例えば,「真実は1つだけである」とか「どんな意見にも反論の余地はある」とか「自分が興味をもっていることは覚えるのが簡単だ」とかといったことが含まれる。認識論というのはもともと知識に関する哲学,さらに狭義では「知識を信念と区別するのは何か」「真実とは何か」を論考する哲学分野であるが,それを個人レベルの信念として扱っているのが認識論的信念だと言える。

さて,この認識論的信念というものに僕は関心をもっているが,それは,認識論的信念が議論や思考の力を身につける過程で変化していくと考えられるからである。例えば,ディベート訓練や科学的探求活動に長年参加した人がいるとしよう。その人にありうる典型的な認識論的変化は以下のようなものでないかと考えている。

1.「正しい」とされる知識や意見を受け入れることが学習であり,良いことであるという状態。これを累積的な知識観と呼ぶ研究者もいる。高校までの学校の勉強では,この認識論を単純に信じることが適応的である。しかし,自分で研究を進めるような場合や議論を行うためには抑制的な働きをする。

2.あらゆる知識や意見には欠点があり,反論がありうるという状態。適切な指導者の下でディベートをちょこっと本気でやれば分かることであるが,実にあらゆるテーマについてのあらゆる立場に対して反論をすることが可能である。人に反論されるならまだしも,自分自身で自分の意見に反対する糸口を見つけるという体験の繰り返しは,人を相対的な知識観へと導くものである。ただし,このときに2つのレスポンスがありうる。自分の考えとか立場を一時的に括弧内においておくということができない,あるいはしたくない。つまり,仮に反対の立場を採用して考えてみるということができないという場合である。大学の先生などの知識層において,実は多い反応である。他の国ではどうか知らないけれど。もう一つのレスポンスは,相対主義に走ってしまうというものである。これは多くの認識論的信念研究の始まり以来,研究者が想定しているものである。なんでも反論しうるから,なにかを信じるのは無理,ということですね。ちょっと頭を使う人ならだれでも思春期に体験すると思われるあれです。この状態にあると,たしかに批判的に考えることはできます。しかし,誰かを説得するような考えを自分で作るということにはなかなかつながりません。それはそうですよね。だって自分の考えでさえ疑っている訳ですから。次の状態においては,批判的な聞き手と主張的な話し手の2つが個人内において共存します。

3.あらゆる問題には複数のそれぞれ妥当な立場がありうるが,特定の目的やパーソナル・フィロソフィーに基づいた場合には,他の立場よりもある特定の立場が正しいと言えることが実感できる状態。この状態には厳密にいうと2つの場合があって,1つは単にこのような考え方を頭で理解しているだけで,自分が何か特定の目的やパーソナル・フィロソフィーを持っていない場合。もう1つは,自分自身が特定の目的やパーソナル・フィロソフィーを持っていて,相対的に考えながらも,「でも,こういうことのためには,こう考えるべき」ということがすぐに明確になる状態である。おそらく多くの人は,ディベートという教育方法で,このようなパーソナル・フィロソフィーの獲得というところまで担えるとは思っていないかもしれない。しかし,パーソナル・フィロソフィーが無いと結局は良い議論ができない,とか,相手を説得できないんだということをトレーナーが明確化していくことで,パーソナル・フィロソフィーの獲得を学習者に促すことができると考えられる。だから,ディベートもやはり,教える側がしっかりとした生き方を持っていないと,そこまで学習者を引き上げることはできないのである。

ということで,認識論的信念が十分に発展するには議論活動への参与が大きな役割を果たすが,議論を動機づける信念の1つが認識論的信念であるというような関係が成立している。これら2つは因果的であるというよりもさらに密接な相互関係を有している。

ところで,科学的探求活動をずっと行うだけで,認識論的信念が十分に発達するとは限らない。研究者の中にも,累積的知識観を持つ人が実はかなり存在すると考えられるからである。特に最近の科学的な細分化は,このような知識観の温存に荷担しているかもしれない。同じ研究テーマについて,社会学,生物学,哲学,心理学,物理学,様々な社会層の人の考えなど,いろいろな観点からの論を本気で勉強することが累積的知識観の看破に必要である。そのため,科学や研究といった探求活動の中で累積的知識観を打ち破ることは非常に時間がかかる。だから,もし認識論的信念についての教育を行うとすれば,ディベートのような活動を取り入れるほうが確実かつ容易であると考えられる。世の中には,科学的探求が即座に思考力や認識論的信念の発展に役立つという考えがあるかもしれない。しかし,それは今の大学をよくみれば必ずしも当てはまらないことがよく分かる。