(一部の人の)青年期クライシスと認識論的信念の関係

前回のつづき。

前回,議論スキルの訓練とそれに伴う認識論的信念の変化について考察しました。ところで,このような認識論的信念は,それがしっかりと洗練されなければ,社会生活を営めないとか,そういうものではありません。しかし,ある種の社会集団や活動に本格的に加わろうとするとき,しっかりと洗練された認識論的信念を持っておくことがそこで適応するためには必要だと考えられます。

もっともカギとなるのは,いかに累積的な知識観から脱するかということでしょう。もちろん誰もがそこから脱する必要があるかというとそうではありません。じゃあ誰かって,それは,例えば大学で研究しようとする人,話し合いを中心とした学習を学校でしようとする人,今の多様化する職場でそれなりの活躍をしようとする人,地域のことを自分たちで問題解決しようとする人です。このような人たちがもし累積的知識観のままでいたら,それは大変です。

例えば,研究をしようとする人の場合。現代科学においては,事実の積み重ねではなく,仮説・理論の構築とその検証によって理論を発展するという戦略がとられています。事実によってのみ真実が明らかになるというのは大昔の話です。あらゆる現象は,検証の道具や検証の方法によって見え方,振る舞い方が変わってきます。したがって,ある立場に立って研究し,明らかになった「事実」は,他の研究手法や理論的立場に立った研究者によって得られた「事実」と相反するようなことが頻繁に起こります。累積的知識観を持つ人は,教科書や論文で書かれたことを正しいものとして受容しようとします。しかし,これらに基づいて何か自分の研究をデザインしようとしたとき,それぞれの個別の知識が断片化され,統合できないことに気づきますが,全部正しいように思えてきて,それぞれの価値を自分で評価することができません。で,そうこうしているうちに,とりあえずデータをとって分析しないといけないという状況になるかもしれません。しかし,結局どんなデータが得られても,それを体系化するための価値と理論を明確に絞り込めないために,それを一貫した知見としてまとめることが非常に難しくなる訳です。

このような状態に陥ったとき,どこに問題があるかについて,上述のように明確になっていればいいですが,ふつうはそんなことはありません。問題は明確化していないからこそ,問題であり続けるわけです。そのときに,ある人は追いつめられて鬱になるかもしれないし,自分の能力が低いのかもしれないと嘆くかもしれません。しかし,上記のような場合,改善すべき点は認識論的信念のあり方であると言えます。

ということで,現代の考えられないような多様性の中では,ものごとの価値をある特定の立場にたって自分で決めていかないといけないことも多くありますが,そこである種の人たちは心理的なクライシスに陥ってしまうことがあるのではないかと考えています。そういう問題にも,実は認識論的信念が関わっている,そういうお話でした。

ちなみに,認識論的信念を最初に手がけた一人であるPerryは,まさに青年期の心理社会的発達という問題として認識論的信念を取り上げたので,このような見方は原点といえば原点であると言えると思う。