ふと脳裏をよぎる疑問

今日は,少し日本ファシリテーション協会のサイトを見てましたが,結構内容が濃くてちょっとした感動を覚えた次第です.

日本ファシリテーション協会
http://www.faj.or.jp/

それでふと脳裏をよぎった疑問があります.

議論研究は果たして,こういうファシリテーターのような実践志向の人々に対して何かを与えることができるのだろうか?という疑問です.

議論,特に相互作用という捉えにくいものを捉えようとすると,既存の方法論ではうまくいかないため,研究にもの凄い時間がかかります.その上で見出された知見が,これまで知らなかったことではないこともあります.つまり,「だれもが直感的には分かっていたけれども,初めて実証された」という感じの知見です.こういうのは,実践家を魅了しません.むしろ研究者がバカにされるきっかけを与えるに過ぎません.

となると,議論研究がこれから盛んになったとして,その知見は誰にとって有意義なものとなりうるのでしょうか?議論の研究者は常に実践家の背後を追いかけていかないといけないのでしょうか?生命科学の研究のように,情報工学の研究のように,市井の人々を驚かせるような知見を得ることはできないのでしょうか.

ドナルド・ショーンの反省的実践に関する論考からすると,科学的知識を初めとする明示的知識は常に暗黙知を不完全な形で後追いすることしかできないので,「議論研究者も常に議論の実践行為を後追いすることしかできない」とあきらめてしまうのが適当なのかもしれません.

しかし,それではあまりにも悲しすぎます.研究ってもっと感動できるものではないのか?と泣き叫びたくなります.

でも,希望が無い訳ではないと思っています.私たちにはコンピュータというすばらしいパートナーがいます.彼らをどうにか味方につけて,議論っていうややこしい研究対象をどうにかできないでしょうか.

この続きはまた今度ですが,とりあえずファシリテーションの入門講座に参加してみようかしらんと思っています.なんとなく恥ずかしそうですけどね〜