となりのルスタムさん

 今日はしばらくぶりに「議論」について,思いついたことを書きます。
「実は議論をするためには必要ではないか」と思う個人特性
 「日本人は議論が苦手」みたいな話は,信じている人もいればそれは違うと思う人もいるでしょう。どちらが正しいにせよ,「日本人があまり議論をしていない」ということにはもっと納得してもらえるような気がします。
 この「議論をしないこと」の理由として,実は多くの人が心に持っているのではないか,と僕が思うのが「自分が直接体験を通して見たり知ったりしたこと以外のことを話したり,議論したりするのはおかしい。むしろ愚かしいことであったり,僭越なことですらある」という素朴な思いこみです(もちろんいろいろ他にもあるだろう要因の一つでしかないですが)。もし自分が直接知っている人,たとえば家族や友人,恋人,同級生,アルバイト先の人たちと共有していないテーマ*1について話すのが,何か突拍子で,偉そうだと思うとしたら,私たちには議論すべきことがほとんど残されていないことになってしまいます。
 いま書いていることは,そんなに目新しい意見のようには見えないかもしれません。しかし,ルリアが昔,中央アジアで行った実験*2を思い出してください。ルリアが報告したのは,中央アジアの読み書き能力を学校で学習していない人々は自分が直接しらないこと,つまり抽象的なことや仮定に基づくことについて推論する能力がない,いやもっと公平に言うと,自分が直接しらないような抽象的な推論や仮定に基づいた推論をすることをことごとく拒むということでした。このことと比較すると,「自分が直接体験を通して見たり知ったりしたこと以外のことを話したり,議論したりするのはおかしい。」というのは,この中央アジアの人たちに結構似ているのではないかと思うのです。もしこれが正しいとすると,私たちの身の回りには実は「いわゆる未開人じゃないけど,抽象的思考・仮定に基づく思考を退ける人」が多くいるのが現実だということになります。
 こういう人たちが多くいるということは一部の人々にとっては当たり前のことかもしれませんが,大学の先生だとかだとどうでしょう?大学生の中にたっくさんのアンチ抽象的思考者がいることを大学の先生は認めようとするでしょうか?ちょっと受け入れがたいような気がします。
 本当に,そんなにアンチ抽象的思考者がいるのでしょうか?僕はいると思っています。でも,まだ今のところをそれを調べた研究はないように思います。いつか調べてみたいと思います。
 もし本当に,アンチ抽象的思考者がたくさんいるとすれば,まず抽象的思考を受け入れてもらうところから大学の授業をはじめないといけないということになるでしょう。でないと,大学は,とんでもなく不公平な教育の場であることになってしまいますからね。
 そして次に問題となってくるのは,そういったアンチ抽象的思考者がいるとした場合,その人たちに抽象的思考の大事さを頭ではなく体験を通して知ってもらうためには一体どうやったらいいのかということです。こういうことがこれからの大学教育では大事になってくると思います。

*1:たとえば「ホワイトバンドの是非について議論する」だとか「日本の少子化政策の現状について議論するだとか

*2:「なんじゃ,それは?」と思った人は,こちらをご覧ください。実験の具体例があります。http://www0.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/000303wbear.html