大学教育に何が足りないかをを示す指標としての大学祭

昨日,自分の大学の大学祭に行ってきました。今年は南海キャンディーズが来るっていうんで,そりゃあ行かない訳がありません。

ところが行ってみてびっくりしたんですが,観客が運動場ぎっしりになるくらいに,「何千人いるのかね?」っていうくらいすごいたくさん人が集まってるにも関わらず,音がほとんど聞こえないのです。ステージの周囲だけが「わはは」とか「どよどよ」って面白そうに反応してるんだけれども,その外野は????って顔でみんなきょとんってしてる,そんな状況です。

で,近くに寄ってびっくりしたのが,↓このステージ設備。BOSEのイベント用スピーカー,小さめのが4つしかありません。この設備の規模は,スーパーの駐車場で産地直送販売を行うくらいの規模ですよ。

そして運動場のこのステージのはす向かいには,↓このステージ。このステージでは,伝説のロックバンド(笑)Kiss,あるいはイングウェイ・マルムスティーン(笑)のような演奏をやっているバンドが,ギンギンに(笑)ギターを鳴らしています。

明らかに実行委員会とサークルの対立構造が見えますね。内情は全く知りませんが。大学祭のメインイベントの時に,このギンギンのロックギターのバンドは演奏をしないようにするっていうような取り決めが困難なのでしょうから。

こんな場所でありながら,変なそぶり1つ見せず,プロの笑いの力量を見せつけ,そして大学祭の料理コンテストの審査員までやった南海キャンディーズのプロフェッショナルな態度にブラボーです。

じゃあ,この話,「議論」に関係するのか?と言えば,もちろん関係します。要は,大学祭というイベントは,さまざまな交渉や会議,話し合いの積み重ねを通して,様々な問題解決や意思決定を行う中で可能になるものな訳で,その出来具合や結果に,作り手の議論能力や問題解決能力が反映されると考えられます。このような観点から考えると,大学祭を見るということが,その大学の大学教育の出来具合を垣間見る1つの場所であるとも言えるでしょう。もちろん,「大学祭がうまく行ってないから,その大学の教育がうまくいっていない」なんて誰も言えません。そこまで直接のものではないでしょう。しかし,大学祭をみることで,その大学の教育にどんなところが足りないか,どこをもっと強化するべきかが見えてくるのではないでしょうか。そう見ることで,その大学はもっと良くなるのではないでしょうか。

例えば,さっきのステージの例で言えば,おそらく実行委員会と各サークル間で,コミュニケーションが取れていないことが問題であり,ひいては,この問題は,自分の所属する集団以外に興味を持たないようなあり方が問題かもしれません。ちなみに,うちの大学では,学生だけではなく,教員の間でも別の部局や別のコースの情報が本当に入ってきません。これって何を示唆しているのでしょうか?決して,先生方を責めているのではありません。つまりは,教員も学生も,それから他の大人も,私達がこれから乗り越えるべき壁を部分的に共有しているということではないでしょうか。

蛇足ですが,こんなに誰でもパソコンを使えるようになっている時代にもかかわらず,学祭のポスターはこんな感じで,水彩です(おそらく)。

中の紙面も,DTPで作った気配はなく,のりとはさみで切り貼りした,10年前と同じようなクオリティになっています。

これって九大生がデジタル・ディバイドの取り残される側にいるっていうことなんでしょうかね?少なくとも,デジタル技術のリテラシーはここではまだまだ浸透していないようです。

あ,それと,大学祭のホームページらしきものが存在しないっていうのも,かなり危機的な状況だと思います。お金がなくても,人手がなくても,なんとかなるのがインターネットの世界なのですから。

今回取り上げたいろいろな事実は,大学教育をどのようにこれからもっと良くしていくかを考えるときの大事な参考資料になるかもしれません。大学祭に行って,そんなことを考えてしまった訳です。