適応と進化の観点からみた「理由付けの妥当性」

こんちは。またすばらしい先生との出会いがありました。北海道大学の亀田先生です。九州大学での集中講義でお話を聞くことができました。

お話を聞いて,今日考えたことは,議論と進化的適応系との関係です。私達の社会には,どんな理由付けが議論の時に説得力があるのかというのがなんとなく決まっています。ある仕事を今すべきかどうかを考えるときに,「この仕事をやらなきゃ,明日の食いぶちが減るよ」という状況のときと,「この仕事をやっておくと,将来お金持ちになるよ」という状況のときに,どっちが仕事をやる理由として説得力があるかというような問題です。

こういう理由付けの説得力を決める要因には,いくつかあります(そのリストを今理論的に整理して本に書きたいと思っていますので,ここではまだ非公開です)。この理由付けの説得力を決める要因自体が,人間社会の中で,進化的適応系として構成され,文化的アーティファクトとして創発したということは考えられないだろうか。これが今日考えたアイデアのコアです。

認知的ヒューリスティックとかとの関連性もまだ未検討ですし,人間がやってしまいやすい論理的な誤謬ともどういう関係があるかを考えないといけません。

でも,私達の思考や判断のメカニズムを支配するものが論理的な演算のルール,つまりメンタル・ロジックだけではないことを,理論的に大きな枠組みをともなって主張する際には,このようなアイデアが役立つと思います。

ゲーム理論系の心理学的研究では,人間の行動原理が説明されることが多いのですが,それにとどまらず,人間の心の中にある判断基準自体が長い歴史を経て創発的にできあがってくるということをシミュレーションできたりしないですかねえ。いつか近い将来にできる気がします。