議論能力の発達段階に応じた指導?

 今日は,僕が業務の一環として授業補助を務めている授業で,ヴィゴツキーの発達論のお話が紹介されていて,いろいろと復習になりました。
 ちょこっとおさらいすると,発達理論には大きく分けて2つの相反する立場と,それらの中庸をとる立場がちょこちょことあります。認知発達理論の中で最も有名な人としてあげることができるのは,ピアジェ(ちなみに英語では,ピアジェーイって発音して,アクセントはジェにあります)です。ピアジェは発達と教育の関係については,全く関係が無いと論じています。そして誰かを教育するためには,教育される子どもが,教育内容を理解するために必要な発達段階に既に達しているということが必要であるということになります。これはつまり,誰かを育てるには,それ相応の準備状態が必要だということになってきますから,教育は,非常に秩序だった,しかも特定の準備状態にある人だけを対象にした非常に狭い範囲の活動であるということになります。このような考え方は一般的ではありますが,考えてみるとものすごく脆弱な基盤に立っています。発達と教育を分けるということは,家庭なり地域なりでいろいろと他の人と交わる中で,子どもが学ぶものはほとんど無いということになります。教育の影響をそれほど強くは受けないということは,学校に行った人と学校に行った人の論理的思考能力がそれほど変わらないということになります。ピアジェ理論を信じるということは,これほどまでに変なことを受け入れることなのです。(余談ですが,日本の教育心理学ピアジェに強く影響されていることと,日本教育心理学会に教育研究が少ないこととは深い関係がありそうです。つまり,多くの人が教育の可能性を信じていないのかもしれません)。
 それに対して,ヴィゴツキーは教育と発達は不可分であると考えます。ある人の今の能力は,家庭教育や意図せざる教育(ガイドされた参与による学習)によって,知的能力の成熟と相俟って形成されたものであり,その人の発達段階というものは,教育的介入の如何によって早められたり,遅められたりもします。ある人間の可能性を伸ばそうとするとき,間主観的にZPDに働きかけること,それがその人の能力を高めていくと考えられています。

 これらの議論は,人の発達が文化や教育と分離できるかどうかということを巡る議論でもあるし,教育がどれくらい意味があるのかということを巡る議論でもあるし,もう一つは,人が他者との関わりよって教育されるのか?自分自身によって教育されるのか?ということを巡る議論です。ただし,注意しないといけないのは,「発達」とは言っても,それは説明の対象となる人間の能力の領域によって,教育が先か発達が先かという問いへの答えは変わってきます。

 ある能力は非常に身体的な成熟に依存していることでしょうし(視力の発達や人を表象する能力の発達,心の理論のモジュールの発達など),ある能力は,人間が生得的に持った能力というよりも,文化的に引き継いできたスキルを獲得することで身に付くことでしょう。

 では,議論能力の場合は,生得的にそなわったレパートリーで成熟を待つべきものなのでしょうか?もちろん違うでしょう。議論というのは,非常に文化に依存した活動であります。従って,議論力というものを育てるときに,あたかもそれが成熟によって実現する生得的に備わったレパートリーであるかのように,議論力の発達的段階を想定して,「ある段階になるためには,その前の段階が必要だる」などと主張するのははなはだおかしいことですね。

 議論能力を育成する場合,発達段階にとらわれて,教育的介入を控えるというのは本当に意味がないことなんだなというのを今日,なんとなく考えていました。