冥王星の消滅を子どもの学びに活かす

 いまさらだが,冥王星がなくなることが決まった。一部の職業の方,例えば冥王星が話に出てくるお話を書いた漫画家や小説家,ちょっと前に組曲「惑星」に冥王星のパートをつけ加えた作曲家や占星術家にとっては非常に迷惑であることは間違いない。

 ホルストの「惑星」の冥王星付きヴァージョン世界初録音

 他方,教育にかかわる人々,特に教科書会社や博物館などでは対応に大わらわである。しかし,これは理科教育というか,科学教育というか,子どもに「科学」というものがどういう性質をもったものであるかを教えるためには絶好の機会ではないだろうか。彼らは科学的知識が修正されるその瞬間を体験したのである。まあ,その修正というのは,地動説ほど大きくはないけれども。それでも,昨日まで教科書に「事実」として掲載されていた事柄が,今日から違ってしまうわけである。科学というのは,そうやってちょっとずつ,そして時にはドラスティックに変化しながら知識を紡いでいく営みであり,その過程には科学者を中心とした科学的コミュニティ内での議論がある。その議論は,単に複数の意見が闘わされるというのではなく,議論を支えるための観察結果や理論体系に基づいて,議論の基盤を共有していくプロセスがある。その協同のプロセスこそが科学の根幹にあるものである。それがあるからこそ,科学は発展し,時に今回のようなちょっとした「変更」が決定されることがあるのである。
 多くのニュースでは,冥王星がなくなることの「寂しさ」や「対応に追われて大変だ」という論点から論じていたようだったが,その科学的な議論の意味や価値についてはほとんど言及されていなかった。しかし,科学的な観点からみれば,むしろ重要なのは「惑星」の定義がこれまで曖昧であったということの問題点が今回の変更で有る程度改善されたということではないだろうか。その科学的な議論のプロセスを子どもにわかりやすく教えることで,科学に「定義」というものがあって,それが科学においてどのような意味があるかを教えることにも繋げられるのではないだろうか。もしそういった解説がなければ,「世の中のことは変わる」とか「教科書はあてにならない」ということだけが子どもに印象づけられてしまう可能性もあると思う。もちろんそれは事実であるが,科学的知識がどのようにして変わるのか,これが科学教育において重要だろう。
 冥王星の消滅をどう説明していいのか困るのではなくて,学校の先生方にはこれを積極的に利用して,科学の本質を子どもに語って欲しいなと勝手に思う今日このごろである。