「ゆさぶり」再考

 「ゆさぶり」という言葉は,たまに教師や教育関係者が使う言葉である。どういう意味かというと,授業において生徒の持つ常識的な理解や判断に,それを否定したり,別の観点を持つ考えをぶつけることで,生徒に視点の転換のきっかけを与えることである。このゆさぶりという概念は,優れた教育者として著名であった斉藤喜博氏の実践や著作,氏主催の研究会などを通して形作られ,その研究会にも参加していた教育心理学者の吉田章宏氏によって教授学の主要な専門用語の1つとなった。
 このゆさぶりの教育実践は,単なる知識獲得やスキル獲得を教育するということが目的ではない。つまり,子どもの「誤った」理解や判断をゆさぶることによって,それを正しいものと入れ替わればよしとするものではないということである。
 では,何のためにゆさぶるのか。吉田氏によると「視点を転換することを通して,さまざまな視点の関連づけと統合が行われ,対象の多面的で深い認識と,新しい発見とが行われること,さらにそのことを通して新鮮な喜びが経験されること,そして,さらに視点の変換そのものが柔軟に行えるようになること,「しなやかさ」が育てられること,このことが目的」であるという(吉田,1974)。
 このようなゆさぶりで実現しようとすることは,僕が議論教育の効果として考えているものと多くの共通点を持つし,また議論力と基礎となる力でもある。従って,ゆさぶりをふんだんに盛り込んだ授業を研究することは,議論教育の前提を支えるような小学校の授業をデザインする上で,極めて豊かな示唆を与えてくれると考えられるのである。
 吉田氏は斉藤喜博氏の授業実践を参考に,典型的なゆさぶりがどのようなものであるかを紹介している。国語教材の詩で次のようなものがあった。

から

ざりがにが,
すぽっと,からをぬいだんだ。
赤いじょうぶなから。
着なれたやつ。
田んぼのどろのしみたやつ。
(以下省略)

 この「すぽっと」という表現はどのような様子を表しているのかが斉藤氏の授業での1つの発問であった。子ども達は一様に,「はやく」ということだと答えていたが,そこで斉藤氏は何度も子ども達の意向を確認した上で「私は反対だ」と言い始めた。

 以上のような営みがゆさぶりの例であるが,このような例だけがもし紹介されたとすれば,教師の中には「とにかくゆさぶりが大事なんだ」と誤解する向きもあるかもしれない。つまり,1つの授業や単元において,どのようなゴールを目指すためにゆさぶりをかけるのかを考えていなくても,そのようなゴールとは全く関係なくても,とにかくゆさぶりは生徒に教育効果をもたらすという理解をしてしまう恐れもあるのではないかと思われる。
 当然ではあるが,何のために,何に気付かせようとしてゆさぶるかが重要である。それがあるからこそ,ゆさぶりは生徒のA-ha体験に繋がると思われる。目下,僕の関心は,もし場当たり的にしかゆさぶりを作り出せないという教師がいた場合,どういうふうにすれば,その方に,目的志向的で意味のあるゆさぶりを作り出すことが可能なのかということである。どのような訓練を行えば,ゆさぶりができるようになるであろうか。このような教師訓練プログラムがあったとすれば,それは議論教育を実施するために必要な,教師のための議論教育のプログラムとかなりの部分を共有するものではないだろうか。

 もしかすると「ゆさぶり」についての検討は今こそ大事なのかもしれない。

引用文献
吉田章宏 1974 ゆさぶりと視点 『教授学研究』4 国土社(p.54-95)