はじめての放送大学

 先日,初めて放送大学の面接授業というものの講師を担当しました。ほとんどの受講者は僕よりも人生経験が豊富な訳で,僕が教えるというのも変な話。むしろいろいろ教えてもらったほうがいいのでは?と思わないでもなかったのだけれども,まあこういうのも経験として大事でしょう。
 はやり自ら学びたいと思わない限り,放送大学に入学したりなんかしない訳であって,想像どおり,極めて積極的な受講者の方が多くて感動しました。今回の授業は,「思考力の発達」というテーマで,思考研究の歴史を振り返りつつ,いま社会で必要な思考力とは一体何か,そしてそれを捉えるための研究手法や教育方法について論じるというものでした。
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 1コマが2時間以上あって,かつ二日間で5コマ。つまりまともにやったら10時間以上というハードなものでした。それにも関わらず,耳を傾け,自発的に授業に関わって頂いたみなさんには本当に頭が下がる思いがしました。ああいった姿勢を,若い20歳前後の学生にみせてやりたいなあと本当に思います。その年のころの学生は,よく感想として,「自分は日本人だから大勢の前で話すのが苦手」みたいなことを書いてくれたりするのですが,放送大学に集まっている方々を目の当たりにしたら,それがどれくらい間違った認識か分かってくれるでしょう。
 ところで,今回の思考力の授業では,考えるという中に自分の考えを作り,一貫した理由付けを構築し,それを他者に伝え,やりとりする過程を通して修正していくという極めて自己主張的な側面を強調しました。このようなことをお話した場合,よくある1つのレスポンスは,「一貫した主張を持つことや自分の意見の明確化は日本文化にはなじまないのでは?」というようなものです。もしそう思われる方はもう一度考えてほしいと思います。このときの「日本文化」って一体なんでしょう?日本人ってみんな同じなんでしょうか?また,いまだれかが思っている日本人ってこんなものっていうイメージはどれほどの歴史があるのでしょうか?そもそも日本という国家は明治以降に初めてできたものですし,日本というものが単一の文化であるというのは事実ではなく,政策なのです。実際に日本でも,議論力を育成する教育プログラムとして成功した例はいくつもありますし,しっかりとした主張を持って議論できる人材を高く評価する会社もたくさんたくさんあります。僕が教えたことのある20歳前後の大学生はほとんど議論をしたいという強い動機付けを持っていませんでしたが,日本の大学にも議論できて当然という所はあるのです。そうした事実を考えたときに,「日本人には向かない」「日本文化になじまない」というのはどういう意味を持つのか,ことあるごとに再考することは大事だと思います。。まあ,たいがいある文化について「こうだ」というイメージは一面的なので,ことさら議論とか思考についてだけじゃあないですけどね。もし議論をしたり,自分の考えを作ったりするのが嫌だと思ったら,日本文化がどうかはさておいて,「私は議論することがきらいです」と主張すべきでしょう。とかいいつつ,自己主張するように誘導してしまってますが(笑)。