論理の使い方における個人差

 ふと思いついたので書き留めておきます。「論理的かどうか」ということはいろいろな状況で論じられます。そのとき,論理的であったとしても,その論理をどのように利用するかは頭の良い人たちの間でも分かれるのではないかと,ユニクロでブラブラしているときに思いつきました。
 まず「論理」というのは,何らかの前提条件やデータから結論を出すときに用いる推論のルールや道具といったものです。簡単なレベルではA→B,B→CならばA→Cとか,AならばAとかそういうものです。もっと複雑なレベルでは,多くの場面でみられる個々の事実から一般的な法則を見いだしたり,一般的に当てはまることを個別のことに当てはめたりといったことがあります。すなわち,ここで論理と言っているのは,ルールによって支配された推論するときにその背後にあると考えられる「理(ことわり)」です。
 さて,論理的に結論を出すというときの2つの論理の使い方とは,非常にシンプルです。1つ目はまず「言いたいことがまず最初にあって,その正しさを主張するために,論理的な推論の材料を集めて組み合わせる」という使い方。2つ目は「言いたいことが何かはさておき,今ある材料から論理的に推論してみたところの答えがほしいから論理を用いる」という使い方。この2つは両方ともが科学的発見のためには非常に重要な役割を担います。前者は一般的な法則がまだ分かっていないのに,それをあたかも実体視しているような感じではありますが,直観的に真理をつかむという科学者がよくやっていることでもあります。後者はわりと冷ややかで,コンピュータ上のバーチャル問題空間において初期状態を用意してやって,その結果起こったことを素直に受け入れるといった,まるでシミュレーション科学者のような感じです。これら2つは全く違うアプローチであるにもかかわらず,両方ともが実証的な科学でありうるし,2つのプロセスは一人の個人の中に同居します。
 ただ,問題なのはこれらがどちらかに偏ってしまい過ぎることがあるということかもしれません。前者のような論理をもっぱら使う研究者は,もしかするとデータのねつ造や都合のよいデータ解釈へと限りなく近づいていくかもしれません。後者は後者で,行き当たりばったりで,条件を無限に組み合わせていくようなオタクへとつながっていくかもしれません。
 これを整理すると,タイプ1「論理は使わない人」,タイプ2「結論先行型の論理の使い手」,タイプ3「ルール遵守型の論理の使い手」,タイプ4「複数の論理の使い方をバランスよく使い分ける人」みたいな感じでしょうか。
 もしこんな風に分けることができるとしたら,ある人がいつどのタイプの論理の使い方をするかは何によって決まるのでしょうか。それは個人特性と見なしうることなのでしょうか。そんなことが大変気になります。
 もうちょいすっきりさせたいところですが,今日はこのへんで。